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アメリカ史を変える男、スティーブ・バノンとは何者か 

 先日のキッシンジャーから助言をもらうバノンという記事は、書いているこちらが驚きの連続でした。やはり、スティーブ・バノンはアメリカの歴史を変えようとしているということを痛感させられたのです。

 以前にバノンの経歴をブルームバーグが記事にしていました。今回はそれを紹介します。

  トランプが当選し、米国政治だけでなく、国際関係も濁流に巻き込まれるように変化しています。民主党のヒラリーを打ち破ったのはトランプですが、そのまえにジェブ・ブッシュも粉砕しています。そこには巧妙なメディア戦略と調査活動がありました。それを指揮したのが、ホワイトハウス入りが決まっているスティーブ・バノンでした。ヒラリー・クリントンジェブ・ブッシュという二人の大統領候補の本命と考えられていた人物を、まるで2頭の巨大な白鯨を屈服させるように、打ち破ったのですから、これは我々が考えている以上に大きな勝利であったはずです。そこで決め手となったのがバノンが勤務していたゴールドマンサックスの智恵でした。投資の極意にも通じるこの智恵で彼は勝利を手に入れたのです。ただ、その内実はまだ日本ではほとんど紹介されていません。アメリカの政治、メディアの方向性に大きな変化が生じています。

1.奇跡を起こした男

2.スティーブ・バノンは何を成し遂げたのか

3.暴露本の成功 

4.90年代の保守派の挫折

5.バノンの経歴

6.バノンの政治的覚醒

7.ブレイトバートの蹉跌

8.縁故資本主義への戦いの拠点

9.スクープを「武器化した」バノン

10.結論 

 

1.奇跡を起こした男

 スティーブ・バノンは元ゴールドマンサックスのバンカーであり、どこいても目立つ人物だ。とりわけ、灰色のワシントンではなおさらである。口を開けば、機関銃のよう話し、まるで彼の話す言葉が彼自身を追い抜いていくようだ。いつもブロンドの髪をオールバックにしている。数十年にわたって散々苦労を重ねてきた一昔前の青春映画の主人公を彷彿とさせる。

 バノンの別邸は静寂そのものだ。まるで美術館のようである。窓にはシルクのカーテンがしつらえられ、リンカーン時代の邸宅が細部にわたって再現されている。それは南北戦争の1860年代にさかのぼったかのようだ。ふと見ると、ひざにマシンガンを抱え、王冠をかぶった女性兵士の写真が飾られている。これは、彼の娘モーリーンだ。彼女は、ウエストポイント士官学校卒業後、101空挺師団に配属となり、イラク戦争で戦った。その記念写真なのだ。

 しかし、この別邸で奇跡は作られたのである。

 

2.スティーブ・バノンは何を成し遂げたのか

 バノンの人生は、フィッツジェラルドの小説「グレート・ギャツビー」のようなやり直しの連続であった。そのやり直しの中で彼は富を手にし、2016年の大統領選のキーマンとなった。彼は、海軍、投資銀行、ハリウッドを経て、ついに政治の興業主となったのだ。かつてディズニーの代理人であったマイケル・オーヴィッツの帝国がばらばらに崩壊したとき、バノンはオーヴィッツをリビングルームに座らせ、彼はもう終わったというニュースを伝えた。サラ・ペイリンが絶頂期にあったとき、バノンは彼女に様々な情報を囁いていた。ドナルド・トランプ共和党大統領候補を断念しようとしたとき、バノンは、あたかもサーカスの巡業のように、アメリカ・メキシコ国境を訪問するように促した。ジョン・ベイナー下院議長の辞職も、激怒したバノンと彼の同志が共和党に激しく働きかけたためであった。今日では、神秘的な投資家と「となりのサインフェルド」の印税に囲まれ、彼は生きながらにして陰謀論の主人公になった。しかし、その陰謀は民主党ヒラリー・クリントン共和党ジェブ・ブッシュやベイナーのように、自らの権力を追い求めるものではなかった。

 「私はブルーカラーアイルランドカトリックケネディ支持、組合支持の民主党員の家に育った」と、バノンは語っている。「私は軍に入るまでは政治的ではなかった。そして、ジミー・カーターがすべてをぶちこわしにするのを見たんだ。私はレーガンの信奉者になった。今でもそうだ。しかし、私が体制に反感を持つようになったきっかけは、2008年にアジアでの会社経営から引き上げて帰国した時だ。ブッシュはカーターに劣らず酷かった。国全体が不幸に覆われていたんだ」

 彼は自らの職業遍歴から、アメリカ保守界におけるジギルとハイドのような存在となった。彼は2つのことを同時に成し遂げたのだ。一つはBreitbart.comのような旧式のジャーナリズムを用いて政治に影響を与える方法を考案したことであった。実際、Breitbart.comは、ベイナー放逐に役だった。もう一つはNGOである政府説明責任研究所(Government Accountability Institute)を通じて、主要な政治家に関する厳密な、事実に基づいた批判を行ったことだ。そしてメインストリームのメディアでのパートナーを通じて、GAIの調査内容をメディアを通じて幅広く拡散することに成功したのだ。

 このシステムの最大の産物が、GAIの会長であるピーター・シュバイツァーによって執筆された「クリントンの金:外国政府と企業がなぜどのようにしてビルとヒラリーを金持ちにしたのか」という著作であった(邦訳あり)。調査結果を記したこの本は瞬く間にベストセラーとなった。5月にハーパーコリンズから出版されたこの本は、その後数週間にわたって米国の政治シーンに影響を与え続けた。おそらくは、共和党の論客どのような主張よりも、ヒラリー・クリントンに関する認識を形作ったといってよい。

 ジェブ・ブッシュも同じ洗礼を受けた。2015年10月19日に、GAIはシュバイツァー電子書籍「政府と企業はどのようにしてジェブの金儲けを助けたのか」を刊行した。この電子書籍は、ジェブがフロリダ州州知事を2007年に退任後、どのようにして資金を確保したのかを調査したものだ。ブッシュのフロリダでの土地取引、名目だけの企業役員、そして2008年に破産したリーマンブラザーズからの数百万ドルの給与。これらが白日の下にさらされたのだ。ただ、バノンは次のように述べる。「クリントンほど絵にはならない。クリントンの場合は、軍閥やロシアのギャングといった悪人が総出で登場するからね。ブッシュはもっと地味だね。薄汚れた、ガス欠の縁故資本主義だ」

 共和党民主党の筆頭候補を同時に攻撃するというのは奇妙に思える。これに対して、バノンは、ワシントンに対するアメリカ国民の嫌悪によって肩を押されたと述べている。ワシントンに対する嫌悪が、トランプ旋風、サンダース旋風を引き起こしたのも確かだ。バノン本人もこの影響を受けている。しかし、バノンのようなアウトサイダーであったからこそ、米国の政治に一石を投じることが出来たともいえるのだ。バノンを抜きにしては、アメリカ国民の間に秘められたワシントンへの否定的な感情を政治的な力にまとめ上げることは出来なかったであろう。

 バノンがブレイトバードのオフィスにいるときは、おおよそ、ハイドの人格を身に纏っている。ブレイトバード大使館として知られる彼の別宅の地下から采配を振るう。バラク・オバマの選挙の際に、ティーパーティーを支援したのも、共和党指導者を悪者に仕立て上げて、2013年の政府の予算執行措置の停止をもぎ取ったのもこのブレイトバードのブルドッグたちであった。ブレイトバードのサイトは民主党も地獄に叩き込んだ。実際、

ニューヨーク選出のアンソニー・ワイナー下院議員も辞職に追い込まれている。

 ワイナー下院議員が女性支持者へ猥褻メールを送る性癖があるという情報を得たバノンは、ツイッターを24時間体制で追跡し、最終的にその証拠を確保した。その後のスキャンダルはメディアでも報道された通りだ。ワイナー本人の記者会見も、ブレイトバードによって乗っ取られた。当時の主催者であるアンドリュー・ブレイトバードがワイナーに投げかける質問に、驚いた他のレポーターが質問を畳み掛けたのだ。

 しかし、バノンは問題が微妙である場合の方が、政治はより効果的に動くことを理解している。そのために創設したのが政府責任研究所(GAI)であった。2012年に、彼はGIAの出資者の取りまとめ役となった。そして、弁護士、データサイエンティスト、犯罪調査専門家をスタッフとする調査機関としてGIAが生まれた。「レポーターを動かすのは、噂ではなく、事実だということに、ピーター(GIAの所長)と私は気が付いたのさ」とバノンも述べている。縁故資本主義(crony capitalism)と政府の不正を調査するためにフロリダ州タラハシーに創設されたGAIは、ニューズウィーク、ABCニュース、CBSの60ミニッツといったメインストリームのメディアと協力し、下院議会におけるインサイダー取引、大統領選を巡るクレジットカードの不正(クリントン候補は、少額の寄付を元に得たクレジットカードのデータを利用して、寄付者の口座から2度3度と資金を引き出していた)を世間に暴露した。それは、政治的スクープを発掘する作戦であった。それがクリントンとブッシュの暴露本につながったのである。

 

3.暴露本の成功 

 「クリントンの金」が予想外に有名になったのは、メインストリームのレポーターがこぞって取りあげたためである。そして、著者であるシュヴァイツァーが、大口の資金提供者と外国政府から資金を受け取っていることによるクリントン候補の利益の背反の例を次から次へと繰り出したために、なおさらその傾向は強まった。例えば、ハーバードロースクールのローレンス・レッシグ教授は、「『本当にグロテスクな』人物が民主党の大統領選候補になっている」「公平に読めば、シュバイツァーが告発した行動様式は腐敗である」と述べたほどである。「クリントンの金」が出版される直前に、ニューヨークタイムズ紙も一面で「カナダの鉱山業大手の大物であるフランク・ギアストラが数千万ドルをクリントン財団に寄付し、それからビル・クリントンがプライベートジェットでカザフスタンに飛び、カザフスタンの独裁者であるナザルバエフ大統領に面会した。ギアストラはその後カザフスタンにおけるウラン採掘の権利を手に入れた」と報じている。ただ、ギアストラ本人は、クリントンとのディナーがカザフのウラン採掘権入手につながったことは否定している。また、タイムズ紙もシュバイツァーの未刊行の本を引用し、読者を戸惑わせた。

 バノンにとって見れば、「クリントンの金」は、自分の個人的信念を補強しただけであった。彼は、ゴールドマンサックス時代の経験から、保守派にとってのメディアの利用法と、ビル・クリントンの時になぜ保守派が敗北したのかを深く理解していたのだ。「1990年代には、保守派のメディアは、ビル・クリントンを捉えることが出来なかったんだ。当時の保守系メディアは、専門家の見解と意見を垂れ流すばかりで、結論ばかりをがなり立てていた。『(クリントン大統領の不正に関して)弾劾相当なのは明らかだ』と繰り返すばかりだったんだから。音が良く反響する部屋で自分自身にがなり立てていただけなんだよ」アメリカの保守系雑誌であるアメリカン・スペクテイターでのポーラ・ジョーンズ事件の報道も、しばしば、共和党色の濃い報道と見なされていた。そのために、報道が力を持ち得なかったのだ。

 それに対して、バノンは次のように解説する。「ゴールドマンサックスで教わったことの一つは、最初にドアを通っていくべきではないということだ。そうすれば、敵の総攻撃に遭うからね。例えば、ジャンクボンドでそれをやったのが、マイケル・ミルケンだ」「ゴールドマンだったら、どんな商品でも一番先に手を出すことはない。ビジネス・パートナーを見つけるんだ」

 彼のもう一つの慧眼は、主要な新聞で調査報道に従事している記者達は、保守派の熱に浮かされたような夢物語を馬鹿にするリベラルのイデオローグというわけではなくて、より大きなネタにはどうしようもなく引きつけられるような業を背負った人種だということであった。「調査報道の記者にとって重要なこと、それは本人がリベラルでも、良いニュースには必ず飛びつくと言うことだ。だから、事実に基づいた実話を彼らに提示してやれば、彼らはとんでもなくイカすんだ。そして公平にもなる」

 

4.90年代の保守派の挫折

 バノンの活躍の背後には90年代の保守派の敗北がある。90年代当時、保守派の主張は一旦広まったものの、その後崩壊した。当時のターゲットはビル・クリントンであった。保守派の同志は、共和党下院議員であった。この保守派の台頭を押しとどめたのは、保守派の救いのない愚行であった。例えば、インディアナ州選出の下院議員で、下院の監査委員会の委員長を務めていたダン・バートンは、1993年のホワイトハウスのスタッフであったヴィンス・フォスターの自殺は殺人だと信じていた。彼は自分の家の庭で、スイカにピストルを発射して殺人事件であったことを示そうと試みた。しかし、民主党は、バートンの主張の信頼性に疑いを投げかけた。そして、バートンを「スイカのダン」と呼んだのである。それ以降、この問題が蒸し返されるたびに「スイカ」「スイカ」と連呼されることになった。結局のところ、この一件が保守派の躓きの石となったのだった。バノンは、こうした事件が保守派の言論の信頼性を貶め、それと同時に政治的影響力を減退させたと信じている。そこで、バノンが手がけたのは、保守派の過激な主張にプロの技術を導入することであった。

 結局のところ、アメリカの保守派は、90年代の経験から何を学んだのだろうか。それはメインストリームのメディアへの障壁を越えない限りは、成功はおぼつかないということであった。

 それでは、バノンは、どのようにしてメインストリームの壁を乗り越えたのだろうか。それは次のような方法によるものであった。

 アメリカで発表した小雑誌の記事、もしくはウエッブ上の記事が、英国のタブロイド紙で拾われる。そして、それがさらにニューヨークポスト紙や、ドラッジレポートのような右派のメディアで転載されることを期待するという戦略である。たとえは悪いが、ニュースを細菌兵器のように用いるのだ。いろいろな場所に、菌をばらまき、それらが拡散していくのを待つのである。気がついたときには既に時遅しというわけだ。そのための絶好の菌床として利用されたのが英国のタイムズであった。タイムズの名声はこの戦略の効果を倍加したのだ。アメリカのリベラルにクリントンの不正に関する疑惑をかき立てるには、タイムズは絶好のメディアだったのである。

 バノンと協力関係にあったのは英タイムズ誌だけではない。バノンは次のように述べている。「我々は、ヒラリー・クリントンを追求する我が国のトップメディア15、そしてその中でもトップの15名と協力関係にあった」それだけではない。バノンによれば、「クリントンの金」の挿絵入り小説が1月には刊行された。映画も2月には公開された。民主党の大統領候補選が酣(たけなわ)の時期にである。

 

5.バノンの経歴

 ここで、スティーブ・バノンの経歴を紹介しておこう。ヴァージニア州ノーフォーク基地の近郊にうまれたバノンは、大学卒業後海軍に入り、4年間を駆逐艦で、最初は太平洋地域で、補助技術員として、その後、イラン人質問題が発生したときには、アラビア海で航海士として勤務した。1979年にバノンがペルシャ湾に到着するまでに、失敗に終わったテヘランでの人質奪還作戦の準備が行われていた。しかし、この作戦が実施される前にバノンの艦はローテーションで本国に帰還した。

 その後、彼はペンタゴンで海軍作戦部の特別助手となり、ジョージタウン大学の夜間大学院で安全保障の修士号を獲得した。しかし、彼は、それで収まるような人物ではなかった。時はレーガン政権が華々しく登場した時期であった。ウォール街の醸し出す魅力が、バノンを圧倒したのだ。「誰かがこう言っていたんだ。ウォール街に入りたいのであれば、ハーバードビジネススクールに行かなければ、とね」とバノンも語っている。こうして、バノンは、1983年に、29才にして、ハーバードビジネススクールに入学した。

 バノンをハーバードビジネススクール向かわせた本能は正しかった。当時、ウォール街は好景気に沸き立っていた。そして1980年代初頭の投資銀行のバンカーのライフスタイルは、実に魅惑的であった。バノンはハーバードビジネススクールで徹底的に勉強し、トップクラスの成績を収めた。そして、一流銀行のサマー・アソシエートシップ(夏期だけの臨時の見習社員)の推薦状も手に入れた。しかし、彼を採用する企業は皆無であった。クラスメートは、バノンが年を取り過ぎており、海軍にいたこともネックになっていると指摘した。

 ある日、バノンの元に、ゴールドマンサックスからハーバードビジネススクールで開かれる会社説明会の招待状が送られてきた。彼は、ひょっとすれば仕事にありつけるかも知れないと考え、出席することにした。そこでバノンは説明会に向かったのだが、説明会の会場は700名近くの希望者でごった返していた。「なんてこった。これじゃあ、まるでチャンスがない」と考えたバノンは、ドリンクバーに向かった。すると、そこに2名のユダヤ人があてどもなく立っていた。バノンは、彼らと野球談義を始めた。話は盛り上がったのだが、30分も経つと、この二人が、ゴールドマンサックスの経営者であるジョン・ワインバーガー・ジュニアと、後にシニアパートナーになるロブ・カプランであることが明らかになった。

 その晩、ゴールドマンサックス社ではサマー・アソシエートシップの人選が行われた。その会議で、「バノン君ね、彼は年を取り過ぎているからボツにしましょう」と担当者が切り出すと、先の2人が「いや、それは待ってくれ。私たちは彼と話をした。彼は切れ者だよ」ゴールドマンサックス社にとっては文字通り、大ばくちであった。しかし、こうしてバノンは職を得たのである。

 バノンが勤務したニューヨークのオフィスは、敵対的買収のブームで沸き立っていた。「中西部はミルケンに乗っ取られる寸前だった。大火災のようなものだ。ゴールドマンは敵対的買収に与することはなかった。その代わりにドレクセルバーナムやファーストボストンから買収のターゲットとなる企業の防衛に特化したんだ」とバノンも述べている。最初の5年間は、彼はクリスマスを除き毎日働いた。そして、彼はそれが気に入っていた。「同僚はとてつもない奴ばかりだった。海軍で、軍艦の上級士官室にいるようなものだ。」

 その後、彼は一連のレバレッジドバイアウトに着手する。その中にはカルメット・コーチ社を巡る取引も含まれていた。この取引にはベイン・キャピタル社とその出世頭であったミット・ロムニーも関わっていた。

 1980年末からゴールドマンサックスには大きな変化が生じていた。世界の資本市場のグローバル化により、資金量が突然重要になったのだ。当時は、個人企業であったGSが、いずれ株式を公開しなければなくなることを誰もが理解していた。それに金融規制法であったグラス・スティーガル法が廃止されることもバンカー達は理解していた。そうなれば、特定事業に精通した専門家は有利になる。そこで、バノンが向かったのはロサンゼルスであった。メディアとエンターテインメントを自らの専門分野とするためである。「当時は、メディア企業の買収のために外部から人があふれていた。とてつもない勢いで企業統合が進んでいたよ」とバノンも述べている。

 その後1990年に、バノンはゴールドマンの同僚達とバノン& Coを立ち上げる。メディア投資の専門金融機関であった。当時、投資家が選好していたのは、製造業、不動産業で、映画産業などのメディア関連企業は回避する傾向があった。それらは企業価値の評価値が困難なためだ。バノンのグループはVHSビデオカセットの販売数とテレビ番組の評価を組み合わせ、知的所有権を資産として評価するモデルを作り上げた。

 ハリウッドで主要なスポンサーを務めていたフランスの銀行クレディ・リヨネが破産寸前になったとき、バノン& Coは、同社の債権を買い取った。そして、MGMが破産したときも、スタジオの金融を支援した。ポリグラムレコードが映画産業に進出した際には、バノンの会社がその取得に協力した。

 そして、ひょんなことから、バノン本人がエンターテインメントビジネスに乗り出すことになった。顧客であったウエスティングハウス社が、子会社であったキャスルロックエンターテインメント社の売却先を探していた。バノンは、アメリカのメディア界の大物であるテッド・ターナーに交渉を持ちかけた。ターナーも乗り気だったのだが、契約の寸前になり、ターナーは資金を確保できなくなった。この失敗に終わった取引の手数料として、バノンは同社の持つ5番組の版権を引き取った。その中には3シリーズにもわたる「となりのサインフェルド」も含まれていた。

 ソシエテジェネラルが、バノン& Coを買収すると、バノンは、毎日仕事をしなくても良い身分となった。その結果、彼はハリウッドセレブとの交友を深めていく。そして、彼自身が映画のプロデューサーとなる。アンソニー・ホプキンスの1999年の『タイタス』もその一例である。彼はハリウッドでパーティーに目がないジェフ・クワチネッツと知り合う。彼はニューメタルのバンド、コーンを発掘し、バックストリートボーイズのマネージャーも務めていた。バノンが自分の会社を売却しようとしていたとき、クワチネッツは、自分の会社を立ち上げようとしていた。その会社の顧客としてアイスキューブやマーティン・ローレンスが含まれていた。そこに新しい可能性を見いだしたバノンはパートナーとしてその立ち上げに参加した。そして、ディズニーの系列会社であったアーティスツ・マネージメント・グループを買収する。

 ハリウッドでの映画産業に本格的に参戦したバノンは、映画の資金集めよりも、自分は映画そのものを制作したいのだと言うことに気がつく。ウォールストリートへの関心はすっかりなくなっていた。バノンも次のように述べている。「1980年代のゴールドマンは、まるで僧院のようだった。年がら年中働きづくめで、顧客に奉仕し、会社を大きくすることだけに専念していた」ゴールドマンのようなきまじめな個人企業にレバレッジがかけられて、会社をカジノのように取引する。「私がウォールストリートを目指した理由は、他の誰もが目指した理由と同じだ。アメリカの納税者は、それだけの価値のない人間(ウォール街)を救うために、ちょっとした雑誌を買うことも出来なくなっている」とバノンも述べている。

 

6.バノンの政治的覚醒

 バノンの政治面での覚醒は、2001年の同時多発テロによるものであった。2004年には、彼はレーガンを主題にした『悪に直面して』というドキュメンタリー映画を作成している。そこで彼がモデルにしたのが、冷戦史家であったシュバイツァーの著作「レーガンの戦争」であった。この映画のおかげで、アンドリュー・ブレイトバードにも接点が出来た。「我々は、ビバリーヒルズのフェスティバルでこの映画を上映した。するとそこに熊のような人物がやってきた。そして私を抱きしめて頭が破裂するかと思ったよ。そして彼は言うんだ。我々は文化を取り戻さなければならない、とね」それが、アンドリュー・ブレイトバートだったのである。ブレイトバートも、当時ロサンゼルスに住んでおり、バノンに多大な影響を与えることになった。彼らが知り合ったとき、ブレイトバートは、ドラッジレポートで経験を積み、アリアナ・ハフィントンがハフィントン・ポストを創刊するのを手伝い、その後で、自分のサイトを立ち上げたところだった。バノンは資金とオ事務所を貸し出した。ブレイトバートのニュースサイクルに対する直感と、ドラッジレポートで身につけた問題に鋭く切り込む能力にバノンは驚嘆することになる。(ドラッジレポートは、テレビのプロデューサーやニュース編集者が熱心にフォローする保守系ニュースサイトである。)

 「私が彼を尊敬している点の一つは、彼にとっての最も忌むべき言葉が、「学問的専門性(punditry)」であるという点だ」とバノンも語っている。バノンはさらに続けて「我々のビジョン、それはアンドリューのビジョンでもあるのだが、それは常にグローバルな、中道右派の、人民主義、反エスタブリッシュメントのニュースサイトを作り上げると言うことだった」と述べている。このことを念頭に置いた上で、彼は投資家を募り始めた。

 その一方で、バノンはドキュメンタリー映画を作り続けた。ティーパーティー運動を賞賛する2010年のバトル・フォー・アメリカ、金融危機の原因を検証した2010年のジェネレーション・ゼロ、ペイリンを褒め称える2011年のアンディフィーティッドなどがそれだ。実際には実現しなかったが、アンディフィーティッドは、ペイリンの大統領選挙を目的としたものであった。ブレイトバートはそのプロモーターであり、リングマスターであった。ブレイトバートも、後に、バノンをティーパーティー運動レニ・リーフェンシュタールと呼んでいるほどである。

 

7.ブレイトバートの蹉跌

 2010年にはブレイトバートは壁にぶち当たる。彼のサイトはビデオを発表する。そのビデオは保守の活動家によって持ち込まれたもので、農務省のシェリー・シェロッドという官僚の全米黒人地位向上協会での発言を収めたものであった。その中で、彼女は反白人レイシズムを主張しているように見えた。そのビデオが発表された数時間後に、シェリー・シェロッドは、解雇された。しかし、それから明らかになったのは、ブレイトバートの公開したビデオ画像は、悪意を持って編集されていたということであった。シェロッドの主張は、公開されたビデオ画像とは全く逆だったのだ。不幸なことに、保守系の放送局であるフォックスニュースはこのビデオを積極的に取りあげていた。そのために、フォックスニュースは、アンドリュー・ブレイトバートをオンエアの際のゲストとして招くことを停止した。バノンは、サイトを再び立ち上げるために資金集めをしている最中であったが、いきなり「核の冬」状態に陥ったのである。

 しかし、90年代以降、メディアの基準も変化しており、ブレイトバートの出入り禁止も長くは続かなかった。それから1年もしない間に、ブレイトバートのサイトがアンソニー・ワイナーの猥褻メールを取りあげると、アンドリュー・ブレイトバートはフォックスニュースに無事復帰したのだった。この経験から、バノンは真実のニュースの力を思い知るのである。

 ただ、幸運は長くは続かなかった。2012年3月1日に、アンドリュー・ブレイトバートは、ブレントウッド近郊を歩いているところで、ばったりと倒れてしまった。心臓病が原因でブレイトバートはそれからすぐに亡くなってしまうのだ。43才の若さであった。バノンは投資家巡りをしている最中にこの知らせを知った。ブレイトバートの葬儀で、ドラッジは、バノンに今後の身の振り方を尋ねた。「私たちは、これから昼飯にします」とバノンは答えた。バノンはブレイトバートの責任者を引き受けたのである。

 ブレイトバートが天才的であったのは、20世紀初頭のメディア王が理解していたことを彼が良く理解していたという点にあった。大部分の読者は、事実を吸収する際に、臨床研修のようにニュースに接近するわけではない。離れた話題が絡み合う、ヒーローと悪者が登場する進行しているドラマとして、ニュースを体験するのである。こうした「語り」を産み出し、それを編集することにおいてはブレイトバートは天才であった。

 サイトの編集主任であるアレックス・マーロウは「我々の基本的な考え方は、語りの形を見いだすことなんだ」と語る。彼は、ブレイトバートが積極的に取りあげてきた話題を次のように振り返っている。「大きな話題が必ずしも人を驚かせるわけではない。移民、イスラム国、人種暴動、それにいわゆる伝統的価値の崩壊。それでもヒラリー・クリントンがトップだね。」

 ブレイトバートニュースネットワークのCEOのソロフは、現在一月2100万のユニークアクセスがあり、これらの語りをより広い聴衆に広めていると語っている。昨年の夏に、アメリカ・メキシコ国境での児童移民危機に最初に警鐘を鳴らしたのがブレイトバードニュースであった。その結果、下院での移民改革法が頓挫したのである。

 「ブレイトバートは重要な物語に対する信じられないほどの鑑識眼がある。そして得てしてそうした物語は、保守派、共和党員にとっては重要な問題なんだ」とジェフ・セッションズ上院議員(次期司法長官)は述べる。「彼らは驚くほど影響力を強めた。ラジオのトークショウのホストは毎日ブレイトバートを読んでいる。彼らが人にインタビューするときに、読んでいることはすぐにわかる」

 最近では、ブレイトバートは、トランプに共和党大統領候補の地位を与えた。フォックスニュースのトランプ候補に対する酷い扱いにいらだった保守派を団結させる手助けをしたのだ。

 

8.縁故資本主義への戦いの拠点

 タラハシーは、大統領選からは地理的にも物理的にも最も隔たった場所にある。だからこそ、バノンがそこに政府責任研究所を開設したのである。実際、GAIの所長であるピーター・シュバイツァーはニューヨークからタラハシーに引っ越した。「タラハシーにはすることがなにもない。だからここでなら多くの仕事ができるんだ」とシュバイツァーはおどけてみせる。GAIがあるのは、レンガの二階建てのオフィスだ。表札のない玄関には、椰子の木が植えられており、二階のベランダは、スタッフが午後になるとたばこを吸い、議論を始める場所となっている。

 ここでピーター・シュバイツァーを紹介しよう。彼は保守系のフーバー研究所で、ソビエトアーカイブを用いて冷戦史を研究していた。2004年には、「ブッシュ家:ある王朝の肖像画」を共著者として執筆する。その際には、ジェブも含むブッシュ家のメンバーの多くにインタビューを行った。しかし、シュバイツァーはワシントンに失望するようになる。そして、民主党共和党双方に染み渡った腐敗文化に対して過激な言動を取るようになるのだ。「私にとってはワシントンDCは、プロのレスリングのようなものだった。私はシアトルで育ち、13チャンネルでレスリングをよく見たものだ。最初は、こんなに激しく戦うのだから、レスラー達はきっと互いに憎み合っているのだろうと考えていた。しかし、最終的にわかったのは、彼らは実際にはビジネスパートナーなのだと言うことだった」シュバイツァーの関心は、この文化を暴露する方向に向けられた。そして彼の著作は、ワシントン文化の糾弾という色彩を徐々に強めていく。2011年に、彼は「あいつ等を全員放り出せ(Throw Them All Out):政治家とその友人が、どのようにして、株、土地取引、コネで豊かに成り、残りの我々が監獄に入る羽目になったのか」を刊行した。この著作は60ミニッツの注意を引き、下院でも、シュバイツァーが描き出した株の不正取引を禁じる法律を可決した。バノンはこの調査を支援し、最終的にはシュバイツァーにポストを準備した。それが、非政府調査機関である政府説明研究所(GAI)の所長というポストであった。50才になるシュバイツァーは、友好的で、少し太っており、隣の家のバーベキューパーティーで見かけるような、誰にでも好かれる男性である。(バノンは、普通の人間に見えるように、シュバイツァーがテレビに出演するときには、ネクタイは締めるなと忠告している)

 「クリントンの金」に関するプロジェクトで、バノンとシュバイツァーは2つの原則を遵守した。一つは、陰謀論を匂わせるようなことはやめることであった。「我々には呪文があった。事実は広まる。意見は縮小するというものだ。」二番目は、バノンがゴールドマンで学んだ教訓であった。それは、「焦点を絞る(specialize)」というものだ。ヒラリー・クリントンの物語は、あまりに範囲が広く、その全体を攻撃するという手法はそれまでにも用いられていた。そのために、彼らは、最も知られていない最近の10年間に焦点を絞ったのである。この時期に何百万ドルという資金がクリントン財団に流入していた。この一般にはまだ知られていなかった時期に調査を集中させたのだ。

 クリントンのトラブルの多くにいえることだが、ビルとヒラリーの行動に関しては、あふれるほどの調査資料が存在した。クリントン国務省長官に就任したとき、クリントン財団とホワイトハウスは全ての財団への寄付者の氏名を公開するという協定を締結していた。しかし、実際にはその氏名は公開されなかった。そこでGAIの調査員が、納税書類、飛行記録、外国政府が公開した文書を精査した。最も効果的であったのが、グーグルなどのサーチエンジンでは検出できず、それゆえ発見する事が困難なインターネット情報、いわゆるディープ・ウエッブの調査であった。

 

9.スクープを「武器化した」バノン

 GAIのデータサイエンティストであるトニーは、ディープウエッブに関して次のように説明する。「ディープウエッブは、多くの利用価値がない、もしくは軽視されている情報から構成されている。しかし、発見する事が出来れば、それらは全体としては実に有益なんだ」トニーはそうした情報を発見するためのソフトウエアプログラムを作成している。そのプログラムを走らせるためには、膨大な計算量が必要になるために、巨大なヨーロッパのプロバイダの機能を時間貸しで借りている。「この機能を完全に利用するためには装備に13億ドルかかる」と彼も述べている。

 この努力によって、クリントン財団のリストに挙げられていない資金提供者が割り出された。彼らは先に紹介したようなウラニウムの採掘権を巡る取引のように、クリントン財団との関わりで大きな利益を上げていたのだ。この資金提供者の存在が明らかにしたのは、個人の資金と政府の政策の野合であり、多くの民主党員ですら騙されていたのだ。

 「クリントンの金」が衝撃を引き起こしたのは、単にそこで示された事実だけでなく、どのようにしてその事実にたどり着いたのかという方法にあった。GAIが作り上げたのは、シンクタンクというよりはハリウッドの映画スタジオのようなものだったのだ。

 これらの調査内容を普通の人にも理解出来るわかりやすい物語に仕立て上げたのが、。ウイントン・ホールという若者である。彼は著名人のゴーストライターを18冊も執筆しており、そのうちの6冊がニューヨークタイムズベストセラーに選ばれている。その中にはトランプの「タフにならねばならないとき(Time to Get Tough)」も含まれている。ホールの仕事は、一般人には理解しがたいシンクタンクの調査結果を、定められた〆切までに、生き生きとした政治ドラマに書き直すことであった。そのために、ホールは同僚にスローガンをいくつか掲げている。それらは、「常にブレイキングニュースであること」「深さはスピードを凌駕する」というものであった。時間に追われた記者達は、喜んでオリジナルの事実に基づいた調査結果を受け入れる。なぜなら、それらの記者達が手にしているのは、ほとんどが役に立たない情報であるためだ。「ニュースの現代経済学は膨大なスタッフを必要としない」とバノンも述べる。「今日ではウオーターゲート事件も、ペンタゴンペーパー事件もない。なぜなら、今ではもう7ヵ月も記者に一つのテーマで取材させることなど出来ないからだ。我々なら出来る。我々は支援が機能するように作業しているからね」GAIがこのような手法を採用しているところに、保守派がメインストリームのメディアを乗っ取った秘密がある。先ほどのホールは次のように定式化する。「アンカーは左に、ピボットは右に」このスローガンが意味しているのは、彼らが作り上げた物語を武器にしてニューヨークタイムズの第1面を飾る(アンカーは左に)ことは、ブレイトバートのサイトで発表するよりもはるかに価値があるということだ。「我々はメインストリームのメディアを敵だとは考えていない。というのも、我々の仕事の成果を保守の身内の中だけでとどめたいとは思わないからだ」とホールは述べる。「我々はメディアによっていき、メディアによって死ぬ。我々が著作を刊行するたびに、我々が占めることになるヘッドラインのカテゴリー、ピーターが発表するであろう反論によって文字通り崩れ去る戦線の地図を書く。それらのいくつかは希望のリストだ。しかし、たいていそれらは実現する」

 一旦成果がメインストリームのメディアに行き渡れば、次に中心人物(ピボット)が現れる。英雄と悪人が現れ、ブレイトバートの語りのテーマになる。「『クリントンの金』の場合、我々はこの物語を崩さなかった。ブレイトバートのサイトに行けば、20もの事例がみつかる。我々が他のサイトからリンクをつけたものだ。我々は左派からも資料を集めた。こうなればもう雪だるまだ。膨大なアクセス。誰もが巻き込まれていく」とバノンは述べる。

 夏を過ぎる頃になれば、ヒラリー・クリントンは誰もが認める圧倒的な候補者とはいえなくなっていた。クリントン財団に疑惑が持たれており、個人の電子メールのサーバーを国務省長官の通信に利用しており、その通信のログを彼女が破棄してしまっていたためだ。

 しばらくすると、スキャンダルはさらに膨れあがった。8月には調査された電子メールによって、ビル・クリントンが、財団を通じて、国務省から、北朝鮮コンゴのような抑圧的な体制の政府から講演料を受領する許可を得ていたのだ。その発表と同じ日に行われた世論調査では、大部分の有権者ビル・クリントンの妻は「嘘つき」だと判断していた。10月22日に、ヒラリー・クリントンベンガジ問題に関する議会委員会で証言を行った。それでも彼女のトラブルは収まらなかった。

 クリス・レハーヌのような民主党コンサルタントも、バノンと彼のチームが25年前のクリントンを標的にした保守派よりもより効果的であったことを認めている。「クリントンの腐敗に関しては、我々にはまだ仕事が残っている」とバノンは述べる。資金提供者がどのようにして、リベラル派が大切にしている原則を踏みにじったのかに焦点を当てることもそのひとつだ。「コロンビアの熱帯雨林、武器商人、軍閥、人身売買を見ればいい。左派の教授達が価値の守護者であるとするなら、クリントン一家はまさにそれらの価値をないがしろにしたのだ。世界中で最も酷い人間達を手玉にとって、自分たちの私腹を肥やしていた」とバノンも述べている。

 

10.結論 

 結局のところ、バノンの活躍がどの程度まで大統領選に影響を与えたのかを知ることは出来ない。また、誰がバノンに資金を拠出していたのかもわからない。「となりのサインフェルド」の版権による利益は、クリントン、それにブッシュの研究を賄うのに十分だったのだろうか。GAIのCEOであるソロフもその点は明らかにしていない。しかし、ヘッジファンドルネサンステクノロジー共同創設者で、テッド・クルーズにも政治資金を出していたロバート・メーサーが1千万ドルを拠出していることは判明している。メーサーの娘のレベッカは、2013年の税金の申告書類から、GAIの評議員となっていることが明らかになっている。

 支援者が不明であっても、バノンの業績は明白である。それはクリントンとブッシュの支持基盤を失望させて、彼らを破滅にまで追いやったのだ。それも、ゴールドマンでの経験を元にして、である。そして、彼はサンダース議員の支持者の間にも共有されていた縁故主義に対する怒りと嫌悪を最大限に利用した。

 今回のトランプ当選の背後には、保守の組織論、メディア論における革新があった。その中心人物こそが、このスティーブ・バノンであった。バノンはブレイトバートとGAIを用いて巧みに世論を生み出した。その延長線上にドナルド・トランプの当選があった。トランプの勝利は決して偶然ではなかったのである。

 

<参考文献>

This Man Is the Most Dangerous Political Operative in America

Steve Bannon runs the new vast right-wing conspiracy—and he wants to take down both Hillary Clinton and Jeb Bush. By Joshua Green | October 8, 2015 from Bloomberg Businessweek

 WILL RAHN CBS NEWS August 19, 2016, 6:33 AM

Steve Bannon and the alt-right: a primer

http://www.cbsnews.com/news/steve-bannon-and-the-alt-right-a-primer/

Inside the Trump Bunker, With Days to Go

Win or lose, the Republican candidate and his inner circle have built a direct marketing operation that could power a TV network—or finish off the GOP.

by Joshua Green  and Sasha Issenberg

October 27, 2016 From Bloomberg Businessweek

 

[現在振り返って]

 改めて読み直してみるとバノンお才能に改めて驚かされます。その才覚に加えて、ゴールドマンサックスでの勤務体験が、戦略上の指針を与えているのが印象的でした。

「ゴールドマンサックスで教わったことの一つは、最初にドアを通っていくべきではないということだ。そうすれば、敵の総攻撃に遭うからね。例えば、ジャンクボンドでそれをやったのが、マイケル・ミルケンだ」「ゴールドマンだったら、どんな商品でも一番先に手を出すことはない。ビジネス・パートナーを見つけるんだ」

この一言には深く考えさせられました。